ウェイン・レイニー

ウェイン・レイニー(Wayne Rainey)というレジェンドライダーは、1980年代末から1990年代始めにかけて成功したライダーであり、1999年のAMA殿堂入り(AMA Motorcycle Hall of Fame)などで偉業が称えられています。
今回の記事では、ウェイン・レイニーのキャリアや実績、そして彼にまつわる出来事について語ります。
ウェイン・レイニーのキャリアス
6歳の頃に父親からミニバイクをプレゼントされて以来、モータースポーツにのめりこんでいったウェイン・レイニー。プロとしてのキャリアが本格的に始まったのは、4つのダートトラックとロードレースを組み合わせたAMAグランドナショナル選手権(A.M.A. Grand National Championship)からです。順調に実績を重ねていき、1983年にはAMAスーパーバイク選手権(AMA Superbike Championship)の全米チャンピオンを獲得します。その後はケニー・ロバーツ・ヤマハ・レーシング・チームからのオファーを受けて、250ccの世界選手権やスーパーバイク選手権でも活躍していくのです。
そして1987年のスーパーバイク選手権では、ケビン・シュワンツとの熾烈なライバル関係が始まっていきます。ヨーロッパ各地のサーキットで激闘を繰り広げながらも、優勝を重ねていき、鈴鹿8時間耐久レースでの優勝も経験しました。
WGP(Grand Prix motorcycle racing)500ccクラスで1990年~1992年に3連覇を果たすなど、成功を極めたウェイン・レイニーですが、1993年に大きな事故を起こして転換を迎えます。
事故とその後、そしてカムバック
1993年のイタリアGPで、キャリアを終えるクラッシュを喫したウェイン・レイニーは、第六頚椎損傷の重症を負い下半身不随となります。ライバルであるケビン・シュワンツがその年にチャンピオンとなりながら、レイニーの怪我が治るならタイトルはいらないというコメントを残し、復帰を祈りましたが、叶いませんでした。
ですが、マールボロ・ヤマハ・チーム・レイニーを立ち上げて翌年からレース現場に参加し、また、北カルフォルニアで開催されていたワールドスーパーカートシリーズでカートを走らせています。
2019年には、上半身だけで操作ができるバイクに乗り、「鈴鹿Sound of ENGINE 2019」で26年ぶりにバイクを乗る姿を見せました。事故にあってもなお、偉大なるレジェンドの姿にファンが歓喜したのは言うまでもありません。