ランディ・マモラ
ランディ・マモラの経歴
ランディ・マモラは、1959年にカリフォルニア州サンノゼで生まれました。
1979年には19歳ながら早くもロードレース世界選手権に出場し、それ以降、さまざまなメーカーで何度もタイトル争いを繰り広げます。
シリーズランキングで2位になったことが4回もありながら、チャンピオンだけはついに手が届かなかったため「無冠の帝王」とも呼ばれるライダーです。
1987年には、開幕戦の鈴鹿でウェットレースのなか圧倒的なスピードを見せつけます。
シーズン3勝はランキング2位の好成績でしたが、ヤマハとの契約はケニー・ロバーツから断られ行き場を失うことになります。
その結果、翌1988年には新興のカジバに参加することになりました。
カジバでは、ヤマハと比べてマシンの能力が著しく劣ったためにあまり芳しい成績は上げられませんでした。
しかし、そんななかでも表彰台に何度か上がり、それまでと同じく各グランプリで多くの歓声を受けています。
1992年が最後のシーズンとなり、自らのチームでYZR500を操ってランキング10位を飾りました。
ランディ・マモラの人物像
マモラは幼いころからビートルズのファンで、特にリンゴ・スターが好きだったこともあり、子ども時代はドラムに熱中していたと言います。
8歳のときに父親からドラムセットを買ってもらい、その後4年ほどレッスンも受けていたとのことです。
そんなドラム少年だったマモラですが、12歳のときにバイクに魅了されます。
ドラムのレッスンも並行しながら、週末はバイクレースに出場するなど多忙な生活を送っていたそうです。
しかし、まだ12歳の子どもですから学校もありますし、当然宿題もあります。
それらをすべてこなしながらドラムもバイクもというのはさすがに負担が大きく、最終的にはドラムをやめバイク1本に絞ったのでした。
バイクに集中して以降は、数々の成績を収めます。
最初の2年で獲得したトロフィーの数は600本にも上り、また、400回もの優勝を経験しました。
マモラを語るうえで外せないのが、「レイニー・マモラ」との異名を持つほど濡れた路面での走りを得意としていたことです。
ハングオフの際、足が外側のステップから離れるスタイルを取っていましたが、その乗り方は「マモラ乗り」と日本のバイクファンにも有名でした。
ちなみにこのマモラ乗りが見られたのは、ホンダ「NS500」に乗っていた時期です。
ランディ・マモラのおもな成績
マモラは、1979年にビモータ・ヤマハで世界グランプリに初参戦します。
シーズン前半は250ccクラスで4位、後半は500ccクラスで8位でした。
その後、スズキ、ホンダと渡り歩き、世界GP500で何度もランキング上位に付けました。
86年はチームロバーツでランキング3位、87年は3勝を上げランキング2位でした。
最後のシーズンは92年でランキング10位となっています。