ケニー・ロバーツ

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皆さんはケニー・ロバーツ(Kenny Roberts)という偉大なるレジェンドをご存じですか?

1951年生まれのケニー・ロバーツは、母国であるアメリカで若き頃から活躍し、1973年のAMAグランドナショナル選手権(A.M.A. Grand National Championship)での優勝やアメリカ人初のWGP(Grand Prix motorcycle racing)優勝を遂げた選手です。

歴史上でも数少ないAMAグランドスラム達成者であり、ライダーとしての実績が豊富な、まさにレジェンドと言っても良い存在。この記事は、レーサーとして、また近代レースの安全性を高めるための提唱者として、そしてヤマハの顔としても活躍したケニー・ロバーツについて語る記事です。

日本と深く関わりのある彼の物語を一緒に見ていきましょう。

ケニー・ロバーツのキャリア

12歳の頃、友人のミニバイクに乗り、その経験に感動したケニー・ロバーツは、父親が持つ芝刈り機のエンジンを自転車に取り付けて自分のバイクを作成。そこから、ダートレースでキャリアをスタートし、地元のレースで優勝するようになります。その才能や成績を見て、地元のバイクディーラーがスポンサーにつくようになると、高校中退を決意。18歳になった際にはプロレースへの参加が許され、18際の誕生日の翌日にはサンフランシスコで初めてのプロレースに参加しています。初参加のプロレースの結果は4位となり、ここから彼のキャリアはプロとして本格的なスタートを切っていくのです。

ハングオフスタイルと実績

その後は1972年からさまざまな大会で優勝を積み続け、全米選手権での優勝といったタイトルも手にしています。とはいえ、そこまでの道のりでもいくつかの困難はありました。ケニー・ロバーツはダートレースでキャリアをスタートし、オフロードでの実力は確かなものでしたが、舗装されたサーキットではしばらく苦労していました。特にコーナリング中にバイクを安定させる方法が必要と感じた彼は、ヤルノ・サーリネン(Jarno Saarinen)からテクニックを学び、体重移動を大きく取ったライディングスタイル(ハングオフ)を取り入れてオンロードでも活躍するようになったのです。彼は、その後ハングオフスタイルの第一人者として、現在にも影響を与えています。

1978年からはヤマハワークスライダーとして、WGPに参戦し、初年度から3年連続で500ccクラスで優勝という成績を収めてライダーとしての実力を示しました。以後は、指導者や監督してヤマハや自分のチームを率い、優秀な成績を残しています。