坂田和人はジュニアから活躍したオートバイレーサー

東京都江東区出身の坂田和人は、1991年に125㏄クラスで初レースに参戦し、1993年にはスペイングランプリで優勝し、1998年にはロードレース世界選手権(WGP)でシリーズチャンピオンとなっています。

若井伸之らとプライベート日本人ライダーの先駆け的存在となったライダーです。
ずっと125㏄クラスに参戦し、125㏄クラスを代表するライダーとして知られています。

WGPへの参戦を休止

WGPの参戦を希望していた2000年、複数のチームと交渉したのですが結局条件が合わず、WGPへの参戦を休止すると発表し撤退しました。
それ以降、スポット的に全日本ロードレース選手権に参戦していますが、そのほか、MotoGp中継の解説などで活躍されています。
また日本モーターサイクルスポーツ協会主催、MFJレディースロードレース講師などの肩書も持ち、ライダー達の育成にも力を入れている方です。

海外でも人気のライダーであり仲間を大切にした人物

海外でもカズートと呼ばれ親しまれている坂田和人は、輝かしい戦歴がありながらも、苦労を重ねてきた人です。
世界チャンピオンとなってもオフはユンボのバイトと言っているくらいですから、資金繰りといった面でも苦労されています。

開幕戦からずっと2位で、いい位置にありながらもダーク・ラウディスに屈していた1993年シーズン、ずっとWGPで切磋琢磨してきた若井が予選の事故で亡くなりました。
当時、若井はすでに250㏄クラスに転向していましたが、坂田和人にとって若井の死は非常に大きなものでした。
大きなショックを受け上田と一緒に決勝を辞退しようかと考えたといいますが、結局若井のために出場し、WGP初優勝をとげました。

この時、優勝インタビューを受けた若井は号泣し続け、喜びは一切見られませんでした。
バイクの世界で切磋琢磨した仲間の死を悼む様子を見ても、彼がどんなに仲間を大切にしてきたかわかります。

坂田和人の主な戦績は?

坂田和人は1988年にロードレース筑波選手権ノービスで優勝し、翌年には全日本ロードレース選手権ジュニアチャンピオンに輝いています。
1990年、全日本ロードレース選手権国際A級125チャンピオン、WGPに参戦してからは1993年に2位、1994年に年間王者となりました。

年間王者は2回、世界選手権優勝は11回を数え歴代2位の成績を残しています。
表彰台には41回のぼり、ポールポジションにおいては29回、歴代2位と素晴らしい成績を残してきたライダーです。

特に1993年、1995年のシリーズは125㏄クラス、超軽量級クラスのライダーとして、日本人がWGPシリーズランキングの1位、2位を独占する快挙も成し遂げています。
チームとの諸条件さえあっていれば、坂田和人がライダーとして第一線で活躍している姿をもっと見ることができたでしょう。