ロードレース世界選手権日本人ライダー最多の通算175戦

千葉県市原市出身の青山博一は、MotoGP250250㏄クラスの年間王者に輝き、最高峰のMotoGPクラスも4年、走ったライダーです。
戦績もさることながらロードレース世界選手権の出場数通算175戦と素晴らしいキャリアを築き上げました。
彼の弟、青山周平もオートレースの選手として知られています。

小さい頃からロードレースにレビュー

5歳でポケバイ、14歳でミニバイクレースに参戦、1998年にはロードレースにデビューしました。
1999年になると全日本ロードレース選手権GP125に参戦し2回表彰台にのぼり、2000年からはGP250へ転向、年間ランキング2位を獲得、さらにはルーキー・オブ・ザ・イヤーにも選ばれています。

2004年、ホンダ・レーシングスカラシップ第1期生に選出され、ロードレース世界選手権250㏄にフル参戦、ツインリンクもてぎで行われた日本グランプリで初優勝しました。
2010年になると最高峰のMotoGPクラスへ本田RC212Vで参戦、開幕戦のカタールGPでは、ステップアップ勢の中ではトップ、(10位)でフィニッシュ、この先この勢いが途絶えることはないかと思われた矢先、イギリスGPで転倒、大怪我を追いしばらく療養しています。
その後、レースに復帰し数々のレースに出場後、2018年からホンダ・チーム・アジアの監督となり、更新ライダーの育成に力を入れています。

青山博一は典型的理論型のライダーといわれている

ライダーとしてレースに参戦していたころ、青山博一のチームミーティングはほかのチームと比較し、平均2時間も長いといわれているほど、綿密に計画を練るタイプでした。
ハルクプロの本田監督も、青山博一のことを典型的理論型のライダーと言っており、自分の理論を持ちそれを徹底的にメカニックに伝えていたようです。

一つずつ物事を理論的に積み上げて、自分が納得できるまで突き詰めていく、ライダーの中でも冷静でクールな印象があります。
時間がかかっても納得できるまで取り組むコツコツ型だからこそ、175戦という記録を残したのでしょう。

青山博一の主な戦績を見てみよう

青山博一は1996年、1997年と連続でミニバイクレース関東ミニ選手権チャンピオンとなり、1998年には筑波選手権GP125ランキング2位、SP250ランキング7位となっています。
2000年、全日本ロードレース選手権GP250ランキング2位、2002年も同じく2位、そして2003年に全日本ロードレース選手権GP250チャンピオンとなりました。

ロードレース世界選手権では2005年、2006年と4位を重ね、2007年6位、2008年7位を経て2009年に待望の1位をゲットします。
その後は、15位、10位、25位となかなか上位に進めなくなりましたが、本当に長いこと頑張ってきたライダーです。
スペインでも高い人気を誇っていた青山博一が甚爾リーガ・エスパニョーラにいた中村俊輔の試合を見に行き、ユニフォームとヘルメットを交換した際、俊介のチームメイトが青山博一のサインをもらってきてくれとねだられびっくりしたという話も残っています。